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世の中思い通りにはならんのだ

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2007年 04月 26日

記事保存:従軍慰安婦(赤旗/東亜 動かぬ証拠?)

従軍慰安婦問題と銘打ちながら朝鮮人が登場しないのも不思議な話ではあるが、南方限定での話。
裁判に証言として証拠提出され採用されたのだから「公式資料」であるのは間違いない
問題はそこから先の話なのだが。
(何が言いたいのか読み解くのに時間がかかってしまった、期待してただけにがっくし。
まさかこれだけって事はないだろうから次回作を待つ)

赤旗:「従軍慰安婦」問題/日本軍の強制示す公文書/3点の大要(邦訳)
 林博史関東学院大学教授 は十七日、
外国特派員協会での記者会見で「従軍慰安婦」問題についての新資料七点を発表しました。
一九四六?四八年の東京裁判でオランダ、フランス、中国の検察団が提出した尋問調書や陳述書などです。
これらは、同裁判で検察陣を構成した各国の政府機関が作成し、裁判の証拠書類として採用された公文書です。
「慰安婦」が日本軍によって強制的に連行され、性行為を強要されたことを示しています

 これらの資料のうち、
(1)インドネシア駐留オランダ陸軍大尉の報告
(2)日本陸軍中尉の宣誓証言
(3)「慰安婦」を強制された女性(オランダ人)の尋問調書―の三点の大要を紹介します。
(改行したとか仮名づかいの説明略)
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特警隊が婦人 捕まえた
 資料(1)/オランダ印軍情報部J・N・ヘイヂブロエク陸軍大尉の報告「日本海軍占領期間中蘭領東印度西部ボルネオに於ける強制売淫行為に関する報告」(一九四六年七月五日付、インドネシア・ボルネオ島<カリマンタン>ポンティアナック)
 (PD<検察側書類番号>5330/EX<法廷証拠番号>1702)

 一九四三年の前半にポンチアナック海軍守備隊司令海軍少佐ウエスギ・ケイメイは
日本人はインドネシヤ或は中国の婦人と親密なる関係を結ぶべからずといふ命令を発しました。
当時全ての欧州婦人と事実上全ての印度系欧羅巴婦人は抑留されて居ました。

 彼は同時に公式の慰安所を設立するやう命令を出しました。
是等の性慰安所は二種に分類することになって居ました。
即ち三ヶ所は海軍職員専用、五、六ヶ所は一般人用で其の中の一ヶ所は海軍民政部の高等官用に当てられました。

 海軍職員用の性慰安所は守備隊が経営しました。司令の下に通信士官海軍大尉スガサワ・アキノリが主任として置かれ日常の事務は当直兵曹長ワタナベ・ショウジが執って居ました。

 日本人と以前から関係のあった婦人達は鉄条網の張り廻らされた是等の性慰安所に強制収容されました。
彼女等は特別な許可を得た場合に限り街に出ることができたのでした。慰安婦をやめる許可は守備隊司令から貰はねばなりませんでした。

 海軍特別警察(特警隊)が其等の性慰安所に慰安婦を絶えず補充するやうに命令を受けていました。
此の目的の為に特警隊員は街で婦人を捕へ強制的に医者の診察を受けさせた後彼等を性慰安所に入れました。是等の逮捕は主として各兵曹長によって行はれました。

 一般用の性慰安所は南洋興発株式会社支配人ナワタ・ヒサカズが経営しました。守備隊司令は民政部に命じて之を監理させました。是等の慰安所に対する婦人達も亦特警隊の尽力によって集められました。

 上記の報告は日本人戦犯者の訊問から得た報告と本件関係者の宣誓陳述とから輯録されたものであります。

 私は上記の事実は真実に上述の報告書に相違する点のない事を情報将校及日本語通訳として誓って断言致します。

抵抗運動家の娘に強要
 資料(2)/オハラ・セイダイ陸軍中尉の宣誓陳述書(一九四六年一月一三日付、インドネシア・モア島)
 (PD5591/EX1794)

 問 或る証人は貴方が婦女達を強姦しその婦人達は兵営へ連れて行かれ日本人達の用に供せられたと言ひましたがそれは本当ですか。
 答 私は兵隊達の為に娼家を一軒設け私自身も之を利用しました

 問 婦女達はその娼家に行くことを快諾しましたか。
 答 或者は快諾し或る者は快諾しませんでした。

 問 幾人女がそこに居りましたか。
 答 六人です。

 問 その女達の中幾人が娼家に入る様に強ひられましたか。
 答 五人です。

 問 どうしてそれ等の婦女たちは娼家に入る様強ひられたのですか。
 答 彼等は憲兵隊を攻撃した者の娘達でありました。

 問 ではその婦女達は父親達のした事の罰として娼家に入る様強ひられたのですね。
 答 左様です。

 問 如何程の期間その女達は娼家に入れられていましたか。
 答 八ヶ月間です。

 問 何人位この娼家を利用しましたか。
 答 二十五人です。

常に拒絶をしたが無力
 資料(3)/イエ・ベールマンの尋問調書(一九四六年五月一六日付、インドネシア・ジャワ島マゲラン)
 (PD5770/EX1725)

 私は一般被抑留者としてムテラン収容所に抑留されました。
一九四四年一月二十八日、私は吾が婦人部指導者レイツスマ夫人から日本軍俘虜収容事務所へ出頭する様にと云はれました。
此処で私は爪哇(ジャワ)人の一警視を見ました。彼は私を他の六人の婦人や少女等と一緒に連れて収容所の外側にあった警察署へ連れて行った。

 私達が爪哇人警視に案内されて収容所へ帰へって鞄に所持品を充めた後に其警視は私達を日本軍俘虜収容所事務所へ連れて行きました。
此処で私達は三人の日本人に引渡されて三台の私有自動車でマゲランへ輸送され午後四時に到着しました。

 我々はテウグランと称せられ十四の家屋から成っていた小さい収容所へ連れて行かれました。
一九四四年一月二十五日、私達の収容所から連行された婦人や少女等の一団と此処で会ひました。

 一九四四年二月三日、私達は再び日本人医師に依って健康診断を受けました。此間は少女達も含んで居ました。
其処で私達は日本人向き娼楼に向けられるものであると聞かされました。

 其日の晩に娼楼が開かれる筈でした。
帰宅後ブレッカー夫人と私は凡ゆる戸や窓を閉めました。午後九時頃戸や窓を叩く音がありました。私達は戸も窓も開け、閉さしてはならぬと命ぜられました。
寝室だけは戸を錠で閉して私は其処へ閉ぢ籠もりましたが他は其通りにしました。

 私は是を二月五日 日曜日まで継続しました。
其日にも亦日本軍兵卒等が収容所へ入って来ました(以前は日本軍将校のみでした)。
是等兵士の幾らかが這入って其の中の一人は私を引張って私の室へ連れて行きました。
私は一憲兵将校が入って来るまで反抗しました。

 其憲兵は私達は日本人を接待しなければならない。
何故かと云へば若し吾々が進んで応じないならば、居所が判っている吾々の夫が責任を問はれると私に語りました。
この様に語った後、憲兵は其兵士と私とだけ残して立去りました。

 其時ですらも私は尚ほ抵抗しました。然し事実上私はやられてしまいました。
彼は衣服を私の身体から裂き取りました。そして私の両腕を後に捻りました。そこで私は無力となり、その後で彼は私に性交を迫りました。
私は此の兵卒は誰であったか又其憲兵将校の姓名を知りません。

 此の状態が三週間継続しました。
労働日には娼楼は日本将校のために日曜日午後は日本下士官達のために開かれ日曜日の午前は兵卒等のために保留されました。
娼家へは時々一般日本人が来ました。私は常に拒絶しましたが無効でありました。
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突っ込みどころを全部強調しようかと思ったが、量が多すぎるのと些細な翻訳ミスとか言い逃れされるだけなのでやめた。
そして東亜日報が予定通り援護射撃。




調査官「強制的に慰安所に連れていかれたのか」
APRIL 23, 2007 09:29
安倍首相が、軍慰安婦を連行する過程での軍・官憲の強制的介入を認めない理由は、
「いくら探しても、これを立証する公的な文書がない」ということだ。

安部首相は26日に予定された訪米を意識したかのように、21日の米ニューズウィークとのインタビューでも、
「軍慰安婦問題と関連し、日本の首相として責任を感じる」と述べて謝罪の意を示して、河野談話を継承することを明らかにしたが、
「強制動員の証拠はない」という言葉は遂に取り消さなかった。

しかし、東京裁判の証拠資料として提出された諸事例は、安部首相の主張に反する内容を含んでいる。

ある事例では、インドネシア・モア島の指揮官だったオハラ・セイダイ日本陸軍中尉が連合国オランダ軍の調査を受け、
「現地女性を強制的に慰安婦にした」と供述する内容(1946年1月)には、次のような問答が続く。

(問答内容は劣化コピーなので略)
この問答のすぐ前の部分には、憲兵隊を攻撃しようとした現地住民を虐殺した内容がある。

モア島の西方にあるポルトガル領東ティモールの事例は、進駐した日本軍が、地域の首長に慰安婦募集に対する協力を強要したことを示している。
その様子を目撃したポルトガル医療事務員は、次のように証言した(1946年6月)。

「私は、日本人が地域の首長に原住民の少女を娼家に送るよう強要した多くの場所が知っている。
彼らは、首長が少女を送らなければ、直ちに日本人が首長の家に押し入り、親戚の女性たちを慰安所に送ると言って脅迫した」

インドネシアのボルネオ島では、海軍が慰安所を直接管理し、「特警隊」(憲兵隊に該当)が、慰安婦を集める責任を負っていた(1946年7月)。

当地の事例は、1992年、日本のあるフリー・ライターが、オランダ現地で政府資料を入手して月刊誌『世界』に発表したほか、
オランダ政府が1994年1月に整理した報告書にも含まれている。

インドネシア・ジャバ島のマゲランの事例(1946年5月)では、一般の収容所に抑留されていた当時25歳のオランダ人女性が、他の若い女性たちとともに日本軍に引き渡され、
3週間、娼楼に閉じこめられて強制的に働かされ、ある日本軍将校によって一般収容所に返されるまでの体験を語っている。

(内容は劣化コピーなので略)
このほかに、フランス検察隊が提出したベトナム・ランソンのケース、中国・桂林の工場労働者募集で騙されたケースなども記されている。

関東学院大学の林博史教授 は、
東京裁判の記録でなくても日本軍が中国での慰安婦募集に関与したことを裏づける資料が、
日本政府が1992年に公表した公文書に含まれていると指摘した。

1938年3月当時、陸軍省副官が、中国大陸に駐留している軍隊の参謀長宛てに送った
「軍慰安所従業婦等募集に関する件」(1938年3月)という通告には、
「△(軍慰安婦)募集は派遣軍が統制し、担当者の人選を主導する。
△募集する地域の憲兵、警察当局との連帯を密にする」という記録が残っている。



このオランダ人の件で慰安所がその後日本の判断でどうなり、関係者がどうなったかについては当然スルー。
(検索キーワード:「オランダ 慰安所閉鎖」その他は「スマラン」「バタビア」などが入り口)

で、いったいこれがどうしたというのだろう?

by jsdf1100411 | 2007-04-26 00:55 | 【従軍】慰安婦・強制【連行】


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